2012年3月11日日曜日

進化という名の現状維持はもういらない。

さて、blaudropsに新曲ができた。「斜陽の修羅」(仮タイトル)という曲で、なかなかどうして、良い曲に仕上がってきていると思う。特筆すべきは和的イメージを彷彿させるメロディラインよりも、木暮君のギタープレイであると思う。身内の僕が言うのもおかしな話ではあるけれど、どれをとっても本当に絶妙。はじめて彼のプレイを聞いたとき、正直ぞくっとした。その衝撃を是非みんなにも味わってほしい。次回ライブは3/27(火)、下北沢ERAにて。myspaceにて公開中の「響きと怒り」と前述の「斜陽の修羅」の2曲を収録したCDを販売する予定なので、是非足を運んでいただき、生でその衝撃を目撃した流れでお買い上げいただきたい。うん。

僕はアーティストとミュージシャンは別個のものであると思う。多くの人がこれに同調してくれるものと思うが、しかし現状として、アーティストという言葉が簡単に乱用されてはいないだろうか。もともとの語源は"Art”であることを理解して、"Artist”という言葉を使っているとは到底思えないところでその言葉を耳にすることがままある。

絵画の知識は全くないのであまり偉そうなことは言えないのだが、芸術の歴史としてはロマネスク、ルネサンス、バロック、ロココ、新古典、写実主義、印象主義、そしてコンテンポラリーアート(多分この流れであってると思うけど違ったらごめんね!)と常に変化を遂げてきた。今でこそ印象主義は人々の目に慣れ親しんでいるが、マネ、モネ、ルノワール、セザンヌたちが初めて作品を発表したころ、人々はとても奇異な目でその作品を眺めていたそうであるが、いつの間にかそれらの作者が美術の歴史を動かしていた。既成概念を覆した彼らは、間違いなくアーティストであったのだろう。ゴッホに至ってはそんな印象派の人々からも(親友だったゴーギャンからさえも)総スカンを食らっていたにもかかわらず、21世紀の今でも賞賛の声は変わらず世界中で響いている。

既成概念を覆す。ここに、アーティストの価値を見出すひとつの基準があると言っても過言ではないように思う。

音楽の世界でも、同じ事が言えるのではないのだろうか。

音楽に関わっている人間には、大きく分けて2種類あると思う。一つは音楽を演奏する(誰かが演奏できるように助ける)人間。これは大多数。もう一つは、音楽を作る人間。これは音楽に関わる人間があるべき姿でもあるにも関わらず、実は少数派。すごく極端な言い草になってしまったけど、最近とてもそう思う。

大学教授・思想家の内田樹氏の著作「街場のメディア論」に「発言する前に、それはあなたがいうべきことなのか、一度よく考えてみるべきだ。他の人が言っていることを、あなたが改めて言ったところでそこに価値はあるのだろうか」というような内容の記述があったと記憶している。これを音楽に置き換えてみれば、僕の言いたいことが分かってくれると思う。誰かがやっているようなことは、もうやる必要はないのだ。そこには芸術性はなく、あるのは「皮肉な惰性的安心」だけなのだ。それでもまだ、アーティストという言葉を頻繁に使う人がいるならば、その人はこの世界のどこかにある創造の楽園の住人か、はたまた無知の知というものか…

芸術というのは、本当は泥臭いものだと思う。創造は苦しみである。苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いてようやく生み出せた時に初めて、そのプロセスに創造という名を与えても良いだろう。簡単に、カジュアルにできたものを表現するときに、芸術という言葉は、似合わない。

以前も宣言した通り、blaudropsはアーティストである。世界中どこを探しても、こんなバンドはいないというくらいのオリジナリティを確立しなければいけないし、今までにない衝撃を作り出さなければならない。使命感が今blaudropsを攻め立てている。これこそ、創造の第一歩なのだろうと感じる。

進化という名の実質現状維持はもういらない。欲しいのは、「変化」である。

えーじ


次回ライブ:
3/27(火)下北沢ERA 「ERA Presents Creating Images」
17:00 Open / 17:30 Start Ticket : 1800yen (adv.)

blaudrops / The Spit and Honey / Karui Omoi/ The Voxies / Cue:Spec / ステラ・シンカ

詳細→ http://goo.gl/XS38H
下北沢ERA地図→ http://goo.gl/jKiMu

※CD販売あり!「響きと怒り」と新曲「斜陽の修羅」の2曲入り。¥200を予定。